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所沢高校事件を思う(98/4/19) 埼玉県の所沢高校で、卒業式に続き、入学式でも、学校主催のものと生徒主催の「入学を祝う会」との分裂が起こった。 卒業式の際には、学校主催のものは、卒業生420名中400名がボイコットして話題になった。今回も、入学式に参加しないものは入学を認めないなどという過激な発言があったにもかかわらず、結果的には、学校主催のものには、新入生の6割しか参加しないのに、生徒主催の「入学を祝う会」には、全員(ほぼ全員という報道もある)が参加したとのことだ。 この件について、日の丸と君が代をおしつけた校長の時代錯誤への批判や、最近高校生くらいの悪い話題が多い中で、自由を守ろうとしたり、自主性を発揮したりという生徒達のあり方への賛美なりがマスコミを賑わわせた。一方で、一部マスコミは、この生徒達の動きを共産党系の教員たちが扇動したものだと報道している。 私は、政治的な立場を抜きにして、精神科医としてこの現象に注目している。 というのは、私はかねてから今の若者にとっては、自分へのこだわりより、周囲への同調がメインテーマになっていることに着目していたからだ。生徒の自主性が確かに、本当に自主的なのであれば、十分に評価してよい話であるが、今回の件にしても卒業式にしても、一人の反逆者も出ずに全員が参加したことに不気味さを感じるのである。つまり、この事件をとってみても、現在の子どもたちが、教師などへの縦の関係より、周りの生徒達の同調圧力に窮窮としていることが伺われる気がしてならないのだ。 今の若者の周囲の動向がメインテーマになっている様子は、拙著「シゾフレ日本人」(KKロングセラーズ)、「日本を蝕む精神病理」(KKベストセラーズ)、「受験勉強は子どもを救う」(河出書房新社)などで十分に書いてきたことであるが、一応、私のシゾフレ人間論を、近著の「多重人格」で説明したものを一部改変して紹介しておこう。 私の理解は、人間のパーソナリティーは、おおむね分裂病型と躁うつ病型に大別できるというものである。精神病という概念のある社会では、世界中どの文化圏でも、分裂病と躁うつ病が2大精神病になっている。この二つが、人間の精神的な退行の行き着く果てだとすれば、正常範囲の人でも、分裂病のほうにひかれやすい人と躁うつ病のほうにひかれやすい人に別れるはずだろう。前者が分裂病型パーソナリティ(これを私は精神分裂病〈schizophreniaシゾフレニア〉より、シゾフレ人間と呼んでいる)、後者が躁うつ病型のパーソナリティ(これを私はうつ病〈melancholy メランコリー〉より、メランコ人間と呼んでいる)である。この二つは、さまざまな面で対照をなし、前者は若者に多く、後者は中年以上に多いと考えている。 この二つのパーソナリティの一つ目の対照点は、心の世界の主役は誰かということだ。旧世代のメランコ人間の心の世界の主役は「自分」である一方、シゾフレ人間のそれは「周囲の世界」なのだ。 病的なレベルで比較してみたい。うつ病には、シュナイダーの三大妄想というのがある。@心気妄想というのは、「自分は実は大病なのだ。将来大病になる。」ということに妄想的にこだわる状態である。癌ノイローゼやAIDSノイローゼなどがそのいい例だろう。A罪業妄想というのは、「自分は悪いことをしている」という罪悪感にとらわれる状態である。B貧困妄想というのは、根拠もないのに「実は自分は貧しい、将来貧乏になる」というふうに信じ込む状態である。いずれにせよ、この手の妄想の主役は「自分」なのである。一方、分裂病の妄想では、こうはならない。彼らの妄想は「周囲が自分の悪口を言っている」「周囲のある組織が自分の命を狙っている」ということで、妄想世界の主役が、「自分」ではなく、「周囲」の誰かなのである。 病的なレベルでないシゾフレ人間とメランコ人間もこれと似たようなパターンをとる。 メランコ人間は、自分の努力で運命を切り開くことができると信じている。だからうまくいったときは、成功は自分の力で勝ち取ったという自負が強い。逆にうまくいかなかった時も、周囲のせいにせず自分を責めて思い詰める。この自責感や罪悪感は、精神分析をはじめ、いろいろな学派の人がうつの病因として大変重視しているものである。 シゾフレ人間は、自分の力より、周囲の力や運が自分の境遇を決定すると信じている。 今の若者に、「社会で成功するには何が必要か」というようなアンケートを取ると、大抵トップにくる答えは、「運」なのだ。うまくいかなくても、運が悪いのだから、思い詰める必要はない。才能についても、天賦のものという発想が強い。イチローや羽生のような天才型のスターが喜ばれる一方で、昔のようなスポ根、ど根性ドラマは流行らないのだ。 周囲の世界が心の主役であるシゾフレ人間にとっては、価値は他人が決めるものである。マスコミや世間がいいといったものは、自分の好みと関係なしに「いいもの」になるのだ。相当個性的なエキセントリックな顔をしていても、マスコミが美人と言えば美人になってしまうわけだ。このような被暗示性の強さは多重人格患者と通じるものがあるのかもしれない。 二つ目の対照点は、対人関係である。分裂病においては、人と情的に接触することが出来なくなって、自分の世界にひきこもる自閉という症状はきわめて重視されるものである。ちなみにこの自閉の症状のひどい分裂病を破瓜型分裂病と呼ぶ。実際、昔から分裂気質とか分裂病質(シゾイドと呼ばれる)などと言われている人は、人嫌いで冷淡な人のことを指すことが多い。精神分析の考え方では、シゾイドの本質は、人と情的な接触ができずに自分の世界にひきこもることであって、人を拒絶することではない、むしろ表面的には愛想がよいが、人と深いつきあいのできない人なのだということがわかってきた。例えば、フロイトの高弟の一人ヘレネ・ドイチェは、このようなタイプの人をアズイフas if パーソナリティーと呼んだ(こういう人は、アズイフ的に、その場に合っている「かのように」振る舞えるが、人と情的にかかわることができない)し、日本でも、小此木啓吾氏は、同調することでひきこもる現代人を「シゾイド人間」と呼んだ。要するに人と適当に合わせているほうが、本音もみせなくていいので、自分の世界にもひきこもりやすいし、情的な付き合いをする必要がなくなるというわけである。私の想定するシゾフレ人間もこのような対人パターンをとる。周囲への同調はうまいし、それほど密な人間関係を作らないので、転職などは朝飯前だ。パーティーなどでみんなと合わせてワイワイガヤガヤやるのは好きだが、二人で飲み明かすような密な関係はまっぴらごめんというわけである。 一方、ドイツの精神病理学者テレンバッハは、うつ病になりやすい性格の人をメランコリー親和性格と呼んだが、その対人関係の特徴は(特定)他者への献身にあるとした。病的なレベルでないメランコ人間も、情の絡む密な人間関係を好む。彼らの求める親分と子分といった密な人間関係は旧時代の遺物になってしまったわけだ。上司と部下が飲み明かせないのは、このようなパーソナリティの断絶のためなのだ。また、メランコ人間は、環境との情的な結びつきが強いので、転職や転単にうつになってしまう。栄転したのにうつになるというパラドックスはここから起こるのだ。要するに「とらばーゆ」堕の「ヘッド・ハンティング」ということばは、シゾフレ人間世代の若者の語彙なのだ。 こういうシゾフレ人間の広く浅くその場限りの対人関係は、自分のその日の部分と、相手のその日の部分とだけが関係をもつことを示している。これは精神分析の世界では、部分対象関係と呼ばれていて、相手のよい面とも悪い面とも両方とつきあう(これを全体対象関係という)のでなく、相手のよい面とだけつきあうというわけである。この場合、自分のほうもよい面と悪い面にわけられ、よい面だけが人間関係に現れる。悪い面は隠されないといけないので、自分の本音を出すような深いつきあいは避けられるのだ。 三つ目の対照点は、周囲の世界をどう認知するかである。自閉に対して、分裂病のもう一つの基本症状とされているのが、妄想あるいはパラノイドである。分裂病というのは、認知の歪みの病気、つまり外の世界をどう感じ、どう解釈するかがおかしくなった病気なのだという考えは今でも根強い。さて、分裂病の基本的な妄想は被害妄想とされている。周囲の世界が(周囲の誰かが)自分の悪口を言っている、自分を殺そうとしている等々といったものだ。このパラノイド状態がひどくなったものが妄想型分裂病と考えられる。 さて今の「いじめ」は正常レベル、つまりシゾフレ人間の「妄想」を反映したものかもしれない。昔からいじめはあったわけだが、私の見るところ、今のいじめは、パラノイド的な要素が多々みられる。ある意味では、現代のいじめは、被害妄想の裏返しと言えなくはない。だから、自分がいじめられるという妄想を外の世界に本当に作り出すことで、精神的な安心感が得られるわけだ。だから自分が積極的に加担しなくても、一緒になって傍観してしまうことになるのだ。そのために、いじめられやすい子が探されることになる。昔のいじめは、出る杭は打たれる型のものが多かったが、今は体が太っている上に、成績が悪くて、スポーツもできないといった子を仲間はずれのようにしていじめることが多いようだ。新聞で報道されるような激しい暴力型のいじめより、こういう仲間はずれ型のいじめのほうがより深刻で蔓延しているのだ。逆にいじめられる側は、自分の妄想が現実におこるのだから、非常な苦痛の体験である。受け取り手の変化を表すもう一つの端的な例は、アンケートをとるといじめられたことがあると答える子どもが7割にのぼることにも見られる。本来、いじめというのは、多数の人間が少数の人間をいじめるはずで、いじめられる側のほうがいじめる側より多いということはあり得ないことである。ここでも、ものごとを被害的に受け取りやすいシゾフレ人間的な認知の問題がみごとに表されているのである。 また、パラノイド傾向の強いシゾフレ人間は、すぐに神様を作りたがったり、魔術的思考に頼ろうとする。オウム真理教に限らず新興宗教に若者が走るのも、この手の魔術的救済願望と無縁のものではないだろう。神様を作りたがるというのも、この10〜15年の若者文化の一貫した流れである。松本人志や小室哲哉を引き合いに出すまでもなく、現在は神様型タレントのオンパレードとなっているのだ。これに対して、メランコ人間は全く逆の態度をとる。テレンバッハのいうメランコリー親和性格は「秩序に対するこだわり」を特色とするが、病的でないメランコ人間も、論理性、科学性に強いこだわりをもつ。新興宗教の台頭や神様的タレントの存在に嫌悪感を感じるのはメランコ人間故の対応なのだ。 4つめの対照点は、自分のなさである。分裂病において、シゾイドやパラノイドという二つの退行ベクトルだけでなく、もう一つ問題にしなければいけないのは、それに対抗する自分がないということである。そのために妄想や幻聴の言いなりになってしまうわけだ。また、分裂病の患者は、「自分がない」ためにすぐに他者に変身したり、乗り移られたりと言う妄想をもつ事も知られている。病的でないシゾフレ人間の「自分のない」感覚も強い。一般に自分がないというのは、アイデンティティがないという形で表される。小此木啓吾氏が、留年を重ねるなどしてアイデンティティを持つのをぐずぐずと遅らせようとする若者に警鐘を鳴らす「モラトリアム人間論」を提起したのは70年代末のことであるが、このような若者の病理はさらに進んだようだ。モラトリアム人間は、猶予期間というだけあって、いつかはアイデンティティを獲得するのであろうが、今は半永久的にアイデンティティを持とうとしない人が、相当一般化している。フリーターという職種も確立したし、就職しても「とらばーゆする」というのが、何の不自然もない。自分のない若者は変身願望も強い。パーティーなどでは、相当派手なメイクや衣装で束の間の変身を楽しむ人歯少なくない。また茶髪やロン毛は、外国人になりたい、女性(別の性)になりたいという無意識の変身願望を現しているのかもしれない。 これに対して旧世代のメランコ人間は、自分がありすぎる状態なのだろう。周囲と同じであることを望まず、出世や受験の競争は激しい。また昔の日本人は、アイデンティティについても率先して持ちたがった。「モラトリアム人間論」においても、旧世代の日本人を「モラトリアムなし人間」と呼んで、アイデンティティを持つことにまつわる葛藤がなく、簡単に自分のアイデンティティを決めてしまう像が描かれている。 第5の対照点は、時間の連続性の感覚である。分裂病の患者にとっては、今がすべてである。例えば、何十年も天文学を学んできた学者が幻聴で次のようなことを言われたとしよう。「実は、太陽が地球を回っている。お前はそれを再発見したのだ」と。これまで学んできたものを捨ててでもこのような幻聴の言うことを信じるのが、分裂病の特徴なのである。さらに昨日の幻聴が、「太陽が地球を回っている」と言い、今日の幻聴が、「実は木星を回っている」と言えば、今日の幻聴を信じるのが分裂病の世界なのだ。一方、うつ病患者のほうは、自分の過去を悔いてはうつになってしまい、今の幸せが喜べない。 この程度が軽くなったものを想定すると、シゾフレ人間とメランコ人間の時間に対する感覚がわかる。シゾフレ人間は、周囲との同調のために、過去のことを都合よく意識の外にもっていくのだ(これは、精神分析的にみるとスプリッティング[ 頁参照]である。これの程度のひどいものが解離と考えてようだろう)。要するに、今の周囲と合わせるためには、少々過去の言動と矛盾したことがあっても、それを自覚しないし悩むこともない。 一方、メランコ人間は過去の言動が現在の言動を常に拘束する。過去の言動と首尾一貫しないと非常に不快に感じてしまうのだ。だから、メランコ人間はシゾフレ人間の言動を、ちゃらんぽらんなものと感じてしまう。しかし、これは首尾一貫の質の違いなのだ。シゾフレ人間にとっての首尾一貫は周囲との(つまり空間的な)首尾一貫であり、メランコ人間のそれは過去との(つまり時間軸での)首尾一貫なのだ。 以上、シゾフレ人間とメランコ人間の違いを解説してきたわけだが、これを見ると現在の若者の多くがシゾフレ人間にあてはまることがお分かり戴けると思う。 具体例については、前述の拙著のいずれかを読んで戴きたいが、何となく納得していただければ幸いである。 要するにシゾフレ人間は、周囲の動向に自分の主体性が規定され、同調圧力に弱い。こういう状況では、爆発的なヒットは生まれやすい。80年代にはレコードのミリオンセラーは10年間で8曲しか生まれなかったのに、現在は毎年30曲近く出るわけだし、プリクラ、タマゴッチ、ポケモンのブームも基本的にはこの流れに沿ったものと考えている。 こういうことは日本以上にアメリカでは強く、ヒットの爆発性は、CDや映画の売り上げでも日本以上だ。そういう文脈で考えると、例えば、服部君射殺事件や、OJシンプソンのような賛否両論に別れそうな事件で、僅か2、3時間の議論だけで、一般市民から選ばれた陪審員がすぐに全員一致の評決を出すかが理解できるわけだ。アメリカの個人主義を過信するのは危険で、むしろ彼らは同調圧力にかなり弱いのだ。 私は日本の精神病理の多くはアメリカから伝播してきていると考えている。シゾフレ人間化もアメリカのほうが先だし、いじめもストリートバイオレンスも、調べてみるとアメリカのほうが先だ(これについては、4月10日発売の「VOICE」誌で論じている)。 今回も私が最も危険に感じているのは、子どもたちが全員一致で参加したことだ。参加しないことでいじめられたり、仲間はずれにされるのを怖がってそうしたとすれば、自由や自主性などは吹き飛んでしまう。 自分も左翼運動にかかわっていたので、理解できるのだが、いいことをしていると信じられている限りは、少数意見をいうのは大変難しい。今回の事件でも、主催する生徒の側が「絶対の正義」となっているとすれば、批判者は教師に擦り寄る犬とか、時代錯誤の反動者とか、親離れしていない子どもという扱いをうけ、激しい批判にさらされることだろう。 でも、そういう批判にさらされても、おかしいと思うことはおかしいと言えることこそが、自主性なのだ。今回の件では、PTAから多くの教師まで(彼らが扇動したとは岩内が)、すべて「正義の」自由生徒の味方についていることが、どうしても気になってしまう。 「日本人なんだから日の丸だって大切だ」という右翼学生もいてこそ自由な討議ができるはずだ。そういうものを一切認めないから、共産主義国はすべて独裁に走っ実際、生徒主催のものにどれだけボイコット組が出たかはしらないが、私はそういうボイコット組を頼もしく思うし応援もしたい。もちろん、彼らが本当に自分の頭で考えて、現在の「生徒側」に宗旨替えをするのも大いに結構だ。 私が最も言いたいのは、彼らがいじめられないように見守る周囲がいてくれることを切に望むということなのだ。 |
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