和田秀樹監修「学力向上!親の会」のご案内
コンテンツ

緑鐵受験指導ゼミナールへのリンク
ヒデキ・ワダ・インスティテュートへのリンク
和親の会

新刊本のご案内
あなたのココロが、きっと元気になってくれる34のアドバイス
和田秀樹のTOEIC TEST 600 突破大計画
大学へ行こう!
 
和田秀樹の英語脳力全開 単語ドリル 基礎編
 
 
このまま子どもが勉強しなくなると日本はもうおしまいだあ!(99/2/18)

想像をはるかに超えた学力低下
 最近いろいろと講演のお呼びがかかることが多くなってきたが、その中でいちばん私のこころをとらえたのが、日本数学会のワーキンググループからのお誘いであった。
 彼らの話では、この10年くらいの日本の大学生の数学力の低下は、目を覆わんばかりのものだということだ。経済の講義をしようにも、高校レベルの数学が理解できる学生がろくにいない。超一流といわれる私立大学経済学部の学生の平均的な数学の学力レベルは中2か中3レベルだろうと嘆く教授もいた。
 彼らの調査では超一流の私立大学の経済学部の入試に数学を選択しないで入学してきた学生たちのうち、中3で習う二次方程式が解けた学生はわずかに28%であった。ただし、入試で数学を選択した学生については、高校レベルの問題でもクリアできている。
 確かに、受験生が受験に出ないことは勉強しないというのは、今に始まったことではない。しかし、彼らは超有名私大に合格するくらいの学力があり、各県を代表する名門高校を卒業しているのだ。その大多数が、高校レベルの数学はおろか、中学3年生で習うことすら答えられないのである。
 これは数学に限ったことではないだろう。おそらく受験に出ない科目については、名門高校を卒業していても、身につけていると期待できないのが実状なのだろう。要するに、名門高校ですら教育機関として機能していない。そういう学校を卒業した彼らですら、受験科目以外は、中学生卒業レベルさえクリアできていないというのが現状なのである。
 ここから連想すると、もっと学力が低く、低レベルの高校を卒業した人たち、特に大学受験を経験しない推薦入試組や高卒後すぐに働く人たちの学力はかなり怪しいものとなっているはずだ。受験科目しか勉強しないことが、勉強のできる名門の高校生にすら蔓延しているのだから、勉強が嫌いな子どもたちは、おそらくは英語の学力だってほとんど期待できないだろう。あるいは、一般書を読むレベルの国語力だって当てにならない。
 かつては、経済的理由で泣く泣く高卒で働いていた人の中には、知的には大卒よりも優秀な人はたくさんいた。また、大学生が遊んでいる間、社会経験も積み、大学卒に負けないように読書などに励んでいた人たちこそが、日本の製造業を下から十分支える知的レベルを誇っていたと言ってよい。
 しかし、高卒者の中で、勉強をするのが嫌だからという選択的低学歴の人が多数派を占める現状を考えると、彼らが将来の労働力として、知的には期待できないかもしれない。歴史の必然の中で肉体労働が減り、デスクワークが増えていくだろう。つまり、彼らは昔以上に労働力としてあてになってくるのだ。
 アメリカでは、かなり前から高校卒業者が労働力として信用されず、一定の試用期間を経たり、別の仕事が一定期間以上勤まった人しか本採用しない企業が多いとのことだ。日本でも、高校卒業者が会社に居着かず、すぐにやめるケースが急増していると聞く。またフリーターと言われる人たちも増加の一途だ。
 今後の日本の問題として少子・高齢化をあげる向きも多いが、勤労意欲もあり、知的レベルも高い高齢者が少々増えたところで、いつでも労働力に転化し得るし、そうすることで年金財政などの改善も可能だ。しかし、生産人口の多くが、少なくとも知的には使い物にならないという事態が、気づかないうちに忍び寄っている。これは少子・高齢化よりはるかに深刻な問題だ。ただ、早めに対策を打てば、歯止めも効くものではある。ここで私は日本の将来のため、若者の学力低下の現状の報告と対策についての緊急提言を行いたい。
東大生まで落ちている学力
 アメリカでは、かなり前から若者の学力レベルの低下が指摘されてきた。実際、おつりの暗算でできないなど、アメリカ人の数学力のなさはよく日本では揶揄されたものだった。
 現実に日本の子どもたちの数学のレベルはまだ、計算能力などについてはよく保たれている。1994年から1995年にかけて、国際教育到達度評価学会が行った第3回国際数学・理科教育調査でも、中学2年生の数学の学力は、世界一の座を滑り落ちたとは言え、シンガポール、韓国についで世界第三位の座をキープしている。それに比べて、アメリカは国際平均値以下の点しか取れていない。
 もちろん、学力低下の傾向は日本では続いているので、この結果に安心するのは危険であるし、日本の製造業の将来の強力なライバルであるシンガポールや韓国に数学力で追い抜かれたことは、憂うべき事態と言える。
 ただ、アメリカのように国民全体の学力が低くても、トップクラスの人間が優秀であれば、経済面でも、政治面でも一人勝ちではないかという議論もなりたつ。日本がそのモデルをとるべきかについては、1月号の拙論に書いたのでここでは触れないが、そのトップレベルの学力もかなりあやしくなっている。
 私はたまたま受験勉強法の著作を書いているので、受験の世界については、人並み以上に観察をしてきたのだが、以前より東大合格者の最低点の低下の問題が気になっていた。
 これはもちろん予備校などによる推定点なのだが、少なくとも前年の生徒などとの比較によって作られたものだから、低下しているという事実はあてになるだろう。私が受験生だった1979年当時は、例えば東大文I(法学部進学コース)の合格者の最低点は440点満点の240点程度とされていた。それがここ数年では200点程度となっている。理科I類(工学部・理学部進学コース)では、230点前後から190点に下がり、受験の最高峰とされる理科III類(医学部進学コース)でも290点前後から260点程度になったとのことだ。最近になって、あまりに合格者の最低点が下がりすぎて、英語のできる帰国子女や数学などの特定科目だけが得意な受験生に有利になりすぎたという批判を受けてか、問題が大幅にやさしくなったので、文Tの合格者の最低点は240点前後に戻ったようだが、センター試験での文Tの合格ラインは8割前後まで下がってきている。これは昔では考えられない低得点である。
 東大生の学力低下を具体的に裏付けるデータもある。
 東京大学工学部森正武教授は、1981年から現在まで計4回、東大の教養学部から工学部に進学する2年次に数学の学力テストを行った。4回ともまったく同じ問題を出題し、時間も1時間30分で、採点もまったく同じ基準である。第1回の1981年に100点満点で54.0点だった平均点が、第二回の83年には52.8点に下がった。さらに第三回の90年には43.9点になり、第4回には42.3点に下がっている。ここでも、80年代後半から90年頃にかけての学力低下が著しい。東大の理系の学生が対象なわけだから、日本の数学のトップレベルの学生たちでさえ、数学力がこんなに落ちているのだ。
 トップレベルの学生たちが、これほど学力が低下しているのであれば、彼らに国を引っ張っていってもらうことも、現実には望み薄なのである。
 数学会のワーキンググループに集まった先生方の最近の大学生の学力についての印象を聞くとさらに背筋が寒くなった。
 彼らの話をまとめると以下のようなものである。
 東大でも学力低下が顕著なのは下半分だ。こういう学力低下の傾向は、下位校になるほどめだつ。そのため、東大の学力も下がっているが、東大と京大、あるいは東大と早稲田や慶応との学力差もかなり広がってしまった。そして早稲田や慶応と日東駒専(日大、東洋大、駒沢大、専修大)との学力差も広がった。その場に居合わせた京大教授の先生は、「東大もたいがいできなくなったと思ったが、京大がそれ以上にひどいので愕然とした」と嘆いていた。彼の仲間たちが、現在東大生と京大生と北京大学の学生の学力調査を行っているとのことだったが、中間結果を見る限り、東大生の学力も京大生の学力もかなりひどいものらしい。
 十年くらい前まででまれば、東大と京大の学力差は誤差の範囲と言えるものだった。実際は、東大と早慶だって、試験当日のコンディションの差と言える程度の差しかなかったように思える。私自身、受験の世界では最高峰とされる東大理IIIの合格者なのであるが、学生時代によその大学生と話をしていて、相手が知的に劣ると思ったことは滅多になかった。しかし、今は東大と早慶の学生でさえ、知的レベルが「質的」に異なるようになってきたとのことだ。頂点である東大生の学力が低下しているというのに、それ以下の大学の学生の学力はもっと落ちているのだ。
 今後は、さらなる少子化で、大学の志願者数がさらに減り、数年後には、大学全体の入学定員を割り込むようになる。今でも、多くの私立大学が受験生集めにやっきになっていて、どんどん受験生に負担にならない入試を課すようになっている。つまり、受験生たちがさらに勉強をしなくても、大学生になれるシステムが用意されることになる。もちろん、その分確実に学力は低下していくことだろう。
 高卒者の知的レベルがかなり疑わしくなってきただけではなく、大学を卒業している人の知的レベルすらかなりあてにならないし、今後もっとあてにならなくなりつつあるのだ。

詰め込み教育のうそ
 このような子どもたちの学力低下について、私は単純なようだが、子どもたちが以前のように勉強しなくなったことが原因だろうと考えている。国際教育到達度評価学会の調査でも、日本の子どもたちの塾を含めた家庭学習時間は、世界でも下位にランクされている(調査国中日本より少ない国は8カ国だけだった)。
 ところで、文部省が平成10年の11月18日に発表した平成14年から施行される、新学習指導要領では、数学の学習内容などが大幅にカットされる。ここでは、今の子どもたちが過剰なカリキュラムを押し付けらているということが自明のことのように語られるが、昔のカリキュラムと比べる限り、それは事実と反している。たとえば、昭和33年当時の数学の教科書内容と現在のものを比べてみると違いは歴然としている。昔と比べて減っているものとしては、点の軌跡、三角比、立体図形、そしてダイヤグラムや力の分解(これはベクトルの考え方である)など数学の応用という章がまるまる削られている。この数学の応用の章では、国の税金や予算、保険のしくみまでが内容に含まれていた。一方、現在の教科書で昭和33年当時習っていなかった内容は、確率と統計(と言ってもきわめて基礎的なものだが)だけである。
 国際的に比較しても、日本のカリキュラムはかなり薄いものとなっている。日本数学会理事長の浪川幸彦名古屋大学教授によると、日本の中学の数学授業時間は世界でも最低レベルであるとのことだ。
 受験競争がさかんだとされる高校のカリキュラムにしても、外国と比べるとかなりお粗末だ。数年前の新課程の採用で、高校数学のカリキュラムはかなり削減された。特に微分や積分がカリキュラムから大幅に削減され、行列も高校では習わないことになった。これに対して、例えばイギリスでは、日本の新課程で削除された微分方程式や行列を高校2年生で学んでいるのだ。
 今後の日本の教育のモデルとされるアメリカの教育についても、日本に入ってきている情報はかなり偏ったもののように思えてならない。
 アメリカ教育の礼賛者たちは、クリエイティブな側面や個性を尊重する自由な教育や、自分の意見をはっきり言わせる表現力を重視した教育を高く評価する。そして、ぎすぎすした受験競争がなく、入りやすく、出るのが厳しい大学教育や受験システムなども理想化されている。
 しかしながら、現実には、アメリカの大学は人材の育成にそれほど成功していないはずだ。実際、大卒の比率が日本と同レベルに高いのに国民の平均的な知的レベルは決して高いと言えないのだから。
 アメリカのエスタブリッシュメントの優秀なところは、これまでの教育ではだめだと気づいた点だろう。知識の獲得や系統的な数学教育の重要性を再認識した彼らの間では、子どもの教育熱がかなり高まっているという。時給200ドルを払って家庭教師を雇い、子どもにハードな受験勉強をさせて、アイビーリーグの名門大学にやろうとする親たちがどんどん増えている。
 私も何人かこのような教育ママや教育パパの子弟と話したことがあるが、彼らは自分の親が教育熱心で、自分も名門大学に入れたことを誇らしげに語るのだ。ついでに言うと、現在では相当その大学の有力な卒業生の子弟でない限り、これらの名門大学は「入りやすく」はなくなっているとのことだ。
 東大をはじめとする日本のトップ校の学生たちの学力が落ち、また受験生時代のカリキュラムも削減される中、アメリカではトップレベルの子どもたちが、確実にこれまで以上の勉強をするようになってきた。これも日本の将来を考える上で由々しき事態ではある。
 さらにアメリカの管理のない自由な教育も変わりつつある。アメリカの多くの学校で制服を復活することで、子どもの暴力事件が大幅に減少し、学力も向上する傾向が見られているという。その実状を視察したクリントン大統領までが、制服導入に賛意を示し、「惜しみない援助を与えたい」と言明したという。
 知識の軽視にせよ、管理教育の否定にせよ、入学試験の緩和にせよ、すべてアメリカがむしろ失敗を認め、捨て去ろうとする方向性である。アメリカ教育について、よい面の検討を怠り、悪い面を無批判に受け入れている限り、子どものメンタルヘルスの悪化や暴力の誘発につながると同時に、さらなる学力低下を引き起こしかねないことを銘記してほしい。

日本の教育に対する緊急提言
 そうは言っても、現状の日本の子どもたちの学力低下はまだ行き着くところまで行っているわけではない。平均値を見る限りでは、世界でも上位にいるのは確かなことなのだから。
 しかし、3年後に迫った新指導要領の実施や数年以内に起こる大学定員と入学希望者数の逆転現象や、不景気のために教育問題が市民の関心を呼ばず、あるいはマスメディアもまったく問題意識をもっていない現状を考えると、どこかで歯止めをかけておかないと大変なことになりかねないのも事実である。
 おそらくいちばん大きな問題は、そろそろ全国一律型の教育が限界にきているということだろう。
 日本においては、文部省が全国の小・中・高等学校のカリキュラムを一元的に管理し、教科書の検定を行う。さらに教室の適正規模でさえ、文部省が管理しているありさまだ。自治体の裁量と言えば、せいぜい高校の学区の規模や選抜方法程度のものである。
 アメリカでは、市の単位で教育システムについての決定権があり、実際、教育をどのようにするかは首長選挙の際、かなり大きな争点になるという。市民の所得レベルの高い富裕な自治体では、全米の平均の3倍程度の教育予算をかけて、有効な教育メソッドを買ったり、教育スタッフを充実させて、非常にレベルの高い教育を行っているところもあるという。もちろん、結果的に裕福な自治体の子弟たちが、さらにレベルの高い教育を受けるために階層が固定化するという問題もあるが、自治体同士の教育に競争が生じることで、アメリカも徐々にではあるが、教育荒廃からの脱却が進んでいるのは確かなことだ。
 日本でも、文部省がこれまで通りの束縛をやめ、自治体の裁量を認めれば、おのおのの自治体で生徒のニーズに合わせた教育を行うことは可能だ。これは競争原理が働くだけでなく、いろいろな場所でさまざまな教育方法がとられるため、どこのやり方が学力向上にもっともよかったか?どこのやり方が子どもたちのメンタルヘルスにいちばんよいのか?などの比較も可能になる。これまでのようにろくに実験もしないで、全国一律のカリキュラムを押し付けていた頃と比べると、はるかに現実的なモデルからの教育メソッドの選択が可能になる。もちろん、自治体によっては成功している学習塾や予備校のメソッドを買うこともあるだろう。まさに教育の規制緩和であり、市場原理化である。もちろん、彼らが取り得る選択肢の中に、昔のような濃密なカリキュラムの採用や管理教育の強化があってもおかしくはない。現実には、このような大幅な教育改革はすぐには実現しないだろう。だとすると、いちばん手っ取り早い解決法は、大学の側が入試問題を変えたり、センター試験などを受験の資格試験にするなどして、その大学に入るにふさわしい人間しか取らない自衛策を講じることだ。早慶のような人気大学であれば、まだこれは可能なはずだ。高校教育があてにならない以上、経済学を教えようとするのであれば、数学を必修にするくらいの覚悟は必要であろう。大学が本当に教育機関であるのなら、そのために受験者数や受験料収入が減ることになっても生徒の確保のほうが大切なはずだ。企業の側も、これだけ大学卒業生の質が低下している以上、入社試験に基礎学力のテストを課すくらいのことはしてもいいかもしれない。そのくらいのインセンティブがなければ、今の若者は勉強をしないのだから。
 最後に言っておきたいのは、大学自体の改革である。昔のようにそこそこの基礎学力を有している学生が集まる時代であれば、大学がレジャーランドになっていても、モラトリアムのホームグラウンドになっていても、さほど問題はなかっただろう。しかし、これだけ大学入学者の質が下がっている以上、大学には教育機関としての機能は期待せざるを得ない。
 そのためには、大学の人事システムにも手を入れていかないわけにはいかないだろう。教授になってしまえば、何の業績をあげなくとも、犯罪さえ起こさなければ定年まで地位が保証されるというシステムが大学教授たちの競争原理を機能させなくしている。さらに彼らは人事面でも大きな権限を有し、若い研究者たちは、自由な発言も許されず、研究環境としても好ましいものと言えない。しかも定員があるために、相当業績をあげた研究者でも上司の教授が定年になるまで教授のポストにありつけないというようなことはざらにある。これでは、業績次第で20代でも教授になれるし、経済的にも恵まれているアメリカに頭脳流出が起こらないほうがおかしい。
 かつてのように名門大学の卒業生のレベルが一律に高かった時代であればともかく、学力的な意味でのエリートがこんなに少なくなった以上、頭脳流出は国家の存亡にもかかわる重大事なのだから。
 受験を含む高校までの教育の再建と大学教育の改革を早急に行わない限りは、近い将来日本は技術立国、製造業立国の立場から撤退せざるを得ないだろう。金も技術もあるのに不況というの現在と違って、そうなった時には、日本に立ち直りの材料がないということだけは胸に刻んでおいて欲しい。
(C) 2000-2006 Hideki Wada Institute,co All rights reserved.