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人間の動機がわかっていない役人たち (2000/2/9) 先日、裏に筆書き風のワープロ(かプリンターの印字)で、小渕恵三、中曽根弘文という差出人の名前が書かれた封筒が郵送されてきた。 何のことかと開いてみると、このたび「教育改革国民会議」なるものを発足させるので、各界の有識者の皆様方からお考えを賜りたい、その意見をその国民会議での検討に役立てたいという手紙で、2,3000字程度を目安にするようにということで、原稿用紙と封筒が同封されていた。締め切りも2月末ということで、きちんと指定されている。 さて、私のような教育問題について言いたい放題言っているフリーターが、「各界の有識者」とお役人様から言ってもらえたことは素直に喜ばないといけないのだろうが、こういう人たちが教育行政を仕切っているから、日本の子供たちも勉強する気にならないのだろうなと悲しくなった。 こんなものを大事な時間をさいて書くメリットがまったくないのだ。役人が意見を伺いたいと言ってくれば、ありがたく書かせてもらうのが当然といわんばかりの態度が感じられた。 コフート学派の私からいうと、人間の基本的な動機は自己愛を満たすことである。そういう点では、小渕氏のやっているブッチフォンは受け手の自己愛を満たす賢いやり方だと素直に評価する。たとえば、今回のものだって、ブッチフォンが無理でも、金口某なる差出人の内閣審議官が、電話でもかけてきて、「先生のようなご高名の方のご意見をぜひ伺いたくて」などとよいしょをした上で、依頼状を送りつけてくれば、断る可能性はかなり減るし、書く以上はくずの文も書けないので一生懸命書くだろう。その辺の根回しは民間なら当たり前のことだが、官はそんなことは気にもとめない。次に、これを書くことで何らかの名誉が得られるのだろうかという疑問もある。その国民会議の報告書の末尾に、意見を送ってくれた人の名前が一行でるのが関の山だろう。第一、これが送られてきた時点で、国民会議のメンバーからはずされた(もちろん、そんなものに選ばれると考えること自身が誇大的といえるのかもしれないが)ことも意味する。どういうメンバーを選ぶのかはわからないが、おそらくは、知名度だけ高くて教育にはほとんどタッチしていない文化人や、財界人、そして文部省の味方の進歩派の御用学者なのだろうが、そんな人に自分の意見を送ったところで、「古い考え」「受験の勝者の発想」と一蹴されるのが、関の山だ。もちろん、現在の学力崩壊を憂える私の同志の学者が奇跡的に選ばれたら、私はダイレクトにご意見を差し上げるつもりだが。これは、テレビでいうとスタジオに入って意見をいうタレントやキャスターや文化人と、ビデオ撮りの中で発言する専門家の立場と似ている。コメントを出している専門家のほうがはるかにその分野については勉強もしているし、知識も豊富なのだが、そのコメントは一時間しゃべって、2,3分程度にカットされ、さらにスタジオにいる文化人と称する人が、詳しく知りもしないくせにそのコメントに論評を加える。もちろん、コメントを出した学者のほうには反論の機会は与えられない。そういう事情で、私はビデオ撮りのコメント取材は断ることにしているが、今回の意見を書けというのもまったく同じ手法である。自己愛が満たされるどころか、たとえば私の意見に対して「基礎学力を充実させよ、旧来の受験勉強にも意義があるとの声もあるが―――」という形で、進歩派の意見の前文にされるのが落ちである可能性が強い。反論の機会さえ与えられたら、「―――の声もあるが○○○」の○○○の部分にカウンターパンチを与えてやる自信があるが、それがないと―――の声というのは、だめなアイデアの例にすぎないことになる。つまり、基礎学力、受験学力軽視派の思う壺になるだけだ。このような経験は、多くの文化人(のつもりでいる人、私もそれに含まれるのだろうが)は体験しているはずだ。それを考えると、やすやすと意見を提供する人がいるとは思えない。もちろん、小渕首相と中曽根文相の名前が裏に書いているだけで、感激してすぐに返事を出す人もいるだろうが、サンプルが偏る(つまり反体制や批判的な意見が集まりにくくなる)のは、確かであろう。これでは、国の教育について「広く」意見を集めることにはなるまい。 もう一つは、首相や文相の名で出している依頼状なのに、知的所有権になんら考慮を払っていない点だ。つまり、原稿料や意見の使用料については、一言も触れていない。人のアイディアがただと思っている人が教育行政を牛耳っていることが事実であるとすれば、それを変えないことには、ソフト産業の育成はほぼ不可能と言ってよいだろう。ただで、書かせてやっているという考え方もあるだろうが、これまた相手の自己愛を傷つけることは甚だしい。 もちろん、原稿料以外の見かえりを提供する方法もある。私が、同じ立場の官僚であれば、「次の同種の教育を考える会議や審議会の委員の選定の参考にさせていただきますので」と嘘でも書くだろう。もともと、落とすつもりであったにしても、あなたの意見がくずだったからということにできるからだ。この手は、二度と使えないが、一度であれば、少なくとも、審議会の委員のような名誉がほしい人や、教育について偉い人にじかに意見を聞いてもらいたい人、あるいは、教育に携わっていないが肩書きだけが立派なので審議会に出ている人を論破する自信のある人たちが一生懸命意見を書いてくるかもしれない。 要するにお役人というのは、自己愛も満たされず、報酬も得られず、将来も期待できない依頼を平気で他人にするのだということが、よくわかった。彼らの言うように、教育が本当に「国家百年の計」というのであれば、もう少し人の心を考えたものの頼み方ができないのか、それともそれができないから、日本の教育行政がこの体たらくなのかを思い知らされた貴重な手紙だった。 このエッセイが委員に選ばれなかった僻みや、委員にお前はなりたいんだろうという動機で書かれたものだと指摘する人がいるとすれば、私はその要素を否定しない。おそらく教育問題を論じる人間であれば、なりたいと思うのが自然だろうし、選ばれなかったらひがむのも自然だろう。だから、最初に述べたように「お前は選ばれなかった」と正直に書くのが間抜けなのだ。会議のメンバーは未定で、あなたが選ばれるという期待をもたせるほうが、よほどいい意見が集まる蓋然性は高くなる。しつこいようだが、そういう点で、この依頼書が人の気持ちをまったく理解していないと言っているわけだ。 人の気持ちを理解する能力は、心理学の世界では共感能力と呼ばれる。この共感能力こそが、EQ教育をはじめとする心の教育でもっとも重要とされる要素である。このような共感能力が欠ける人たちに、心の教育を語る資格があるのだろうか?数字を使って論じれば、小渕首相は在位日数一日あたりの自殺者が日本の歴史上最高の数であることは、このようなスタッフを抱えていることと相関があるかもしれないということは、よく覚えておいたほうがよい。 |
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