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勝ちぬけない男への反論(2001/5/15) 私のホームページの読者の方からご親切な情報提供があった。 中山治なる人物が、自著『「勝ち抜く」大人のための勉強法』の中で「『学力崩壊』に大きな貢献をした和田秀樹氏」と書いているということを教えてくださっ たのだ。 私としては、勝手に実名を出され批判されたのであるため、公の場できちんと反論したいと思っているが、何分にも中山氏があまりに無名であるため(たとえば、私が渡部昇一先生や野口悠紀雄先生のように有名な先生からたたかれたら、 その反論を掲載させてくれる雑誌は多々あっただろう)、それをパブリッシュしてくれそうな雑誌はないため、このホームページで反論することにしよう。 彼の批判によると私は「テキスト丸暗記」「点数が高ければそれでよし」という考え方をする東条英機式勉強法の信奉者とされている。前者はまったくの誤読 であり、後者はいまもって私の信念である。 中山氏が批判のだしに使った『受験は要領』においても、テキストを暗記しろということはひとことも言っていない。数学ができない子どもに対して解法暗記を勧め、英語はむしろたくさんの単語や文法を覚えるより通読しろと勧め、テキ スト丸暗記になりがちな社会科については、新書で歴史の流れをつかんだり、問題集を解くことで何が重要なのかを知った上で暗記をしろといっているのである。 科目の特性を考えて必要なことを暗記しろと言っているのだ。丸暗記は私自身大の苦手であるし、暗記する項目を最小限にしたいというのが和田式の基本なのだ。 この2点を前提にして反論をしてみたい。 まず1点目からいうと、確かに私は受験勉強に一定の暗記は必要という立場を とっている。できない子ができるようになるためにはそれは仕方ないことだし、プロセスより結果が大切と考える以上は、いちばんいいやり方を勧めるのは努めと思っている。 さて、「和田氏の『数学は暗記だ』という主張はピーター・フランクル氏をはじめとする数学者の逆鱗に触れて批判の集中砲火を浴びることになりました」と いう記載と「和田氏を信じて数学を丸暗記で勉強した高校生は今どうなっている ことでしょうか。じつに気の毒です」という記載について触れてみよう。 確かに私の『数学は暗記だ』は当時の多くの数学者の逆鱗に触れたようだ。実は私が『受験勉強は子どもを救う』という本を書いた際に、その数学者の集まりで講演をすることになった。私自身も、自分が数学者に嫌われていることを知っていたのでおっかなびっくりだった。ばれたら嫌だなと思っていたが、さすがに 数学者の諸氏はみんな私の素性を知っていた。結果的に言うと、中山氏が考えているように私は『無節操精神』を発揮して宗旨換えをしたり、かつての素性を隠 して学力崩壊の問題と戦っているのではない。現在でも暗記数学の改善案を提案しつづけており(私の『新版・数学は暗記だ』を参照されたい)集まった数学者の中には、まだ私のことをけしからんという人はいたが、その際に二つのことがわかった。 一つは彼らの危機感が強いことだ。子どもの数学離れとゆとり教育の弊害を熟知する彼らは「暗記数学」でもやらないよりましと考えており、そういうわけで 私とも組もうというフレクシブルさをもっていた。このあたりが、数学の世界で名を成した「勝ち抜く大人」だけあって、何の世界で名を成したのかわからない狭量な中山氏との違いである。 もう一つは、これは残念なことだが、彼らが「数学は暗記だ」というキャッチフ レーズはよく知っているのだが、私の本は読んでいないのだ。私の本の中では、 数学の解法暗記において、解法を理解することの大切さ(私はこれを「理解型暗記」と呼んでいた)にも触れていたし、計算力の大切さはさんざん語っていた。そして、さらに覚えた解法を利用して実際の問題にあてはめて解いてみる「試行力」(覚えた解法を使って試行して解くので)の大切さも強調した。認知心理学を勉強して、人間の思考とは知識を使って推論するということを知り、和田式暗記数学の解法を覚えて、それを試行するという考え方とまったく一緒なのを知って感動したも のだ。私が認知心理学に接近したのは、「日本人によく見られる『無節操精神』」 を発揮して」のためではなく、和田式の勉強法の考え方と似ているので、インチキなものではないと感じたからだ。いくら偉い人の言っている理論でも実用的なものでなければ私は紹介しない。櫻井よし子さんとの対談でも話題にしたことだが、私は実践に基づかない理論は信じない。それは単なる机上の空論である。多くの 受験生を合格に導くという実用的で、かつ実践的な勉強法である和田式勉強法と重なる部分が大きいので数ある知能の心理学の中で認知心理学を選んだにすぎない。 いずれにせよ、ちゃんと読んでもらえば、タイトルは過激であるにせよ、数学の学習法としては決してとっぴなものでないことは数学者も認めるのである。たとえば埼玉大学の岡部教授は、「1分見てわからなければ解法を見ろ」というのは、 私なら10分は考えさせるが、これは量的な違いだと言っておられた。日本数学会の前会長の浪川先生は、タイトルを毛嫌いして読んでいなかったが、勉強嫌いの数学学習法に役立つかもしれないからと私の本を貸してくれてと申し出てこられて、喜んでお貸ししたのである。 ちゃんと読めば数学者もわかってもらえる方法であり、彼らに素性を隠したり、宗旨換えをして学力崩壊への闘いをしているわけではないのである。 ついでにいうと暗記数学をやったことでひどい目にあったという人にもお目に かかったことはない。現実に私の勉強法が今でも役に立っていると感謝されてい るから元の私の読者が私の『大人のための勉強法』を買ってくれて、昨年の新書ベストセラーの2位につけたのである。 確かに暗記数学では成績が伸びず、受験がうまくいかなかった人はいる。特にこの問題は私が勉強法の通信教育を始めてからの最大の課題であり、そのために中学レベルまで復習をさせたり、理解のためのサブテキストを作ったりで苦労している。しかし、その結果数学の成績が伸びた人からの評判は軒並みよい。前のWEBエッセイで語ったようにプロセスより結果が大切という信念のバックボーンになっているようだ。つまり、結果がよかった人にとっては、努力して問題を解 くというプロセスの人と暗記数学というプロセスの人とでは大きな差がなく、むしろ試験の点という結果による差のほうが大きいのである。私の本のタイトルだけをみて、「数学は丸暗記だ」と思った受験生は気の毒かもしれないが、本を読んでもらった人には数学者も納得がいくし、認知心理学にもかなったプロセスを踏んだ数学学習法なのである。数学嫌いの子どもをたくさん数学受験に向かわせた(現状では数学受験をなるべく避けることが大問題なのである)という点で、数学者からほめられることがあるくらいだ。というのは、多くの心ある数学者は、数学は好きな人だけがやるべきものでなく、国民の誰もにやってほしいものだと 考えているからである。 第二点の「点数が高ければそれでよし」というこのプロセスより結果という考え方について、当時の私は確かに筆をすべらせて「化学や物理の実験は(略) まったくのムダ」「単なる儀式にすぎない」と書いたのは事実である。実験を一生懸命やっても点が取れないのであれば意味がないし、実験をさぼっていても点が取れる人のほうが、結果的には化学や物理の考え方が残るし、化学や物理の世界で生き残る人が多いと私は考えている。もちろん点数が同じであれば、実験が好きな人のほうが化学や物理の世界に残る可能性があるだろうが、点数のよしあしのほうが、実験の好き嫌いより、その後の予後にいい影響を与える確率が高い。 私がプロセス重視の考えをするのは、医師としての経験からである。医学生時代に解剖実習を一生懸命やっていたやつのほうがいい医者になるとは限らない。 同級生でも、当時さぼりまくっていた奴のほうがある科では手術の名手になって、私の年で助教授になっている奴もいるくらいだ。 そう思っていたら、実態を知らない(こういう現場無視の理論や理念でものを語る人間が日本の教育を狂わせていると私は考えている。たとえば医学教育の場合、解剖実習が本当に必要なのか、コンピューターによる解剖シミュレーションのほうが意味があるとか、そういう本格的な予後調査をきちんとするのが医学教育法の発達につながると私は信じている)中山氏は「こんな主張が許される なら『医師国家試験受験に解剖学実習はムダ』ということになります」と書いてくれている。私ははっきりその可能性があると思っている。 少なくとも「医師国家試験で解剖学は満点の医師が患者を前に『イヤー!じつは メスを握るのは今日がはじめてです』と言ってニターッと笑ったら、これはまさに 『病院の怪談』です。和田氏の主張を読んでいると、今後ますます医療ミスが増えそうな気がして背筋が寒くなってきます」ということが完全に思いこみに支配された考え方である。 医者の立場から言わせてもらうと、手先が器用であることより、解剖学がわかっている人間のほうがはるかに手術は安全である。解剖学が満点という医者はそれだけで頼もしい。解剖学実習でメスを握ったことがなくても、外科のメスの使い方と解剖のメスの使い方は全然違う。死体から臓器を取り除くためのメスの使い方と、生きている人で、後からもう一度縫い直すためのメスの使い方は全然違うのは当たり前のことである。むしろ解剖学実習が上手だったからといって、生きている人の手術をその感覚で指導医の話を聞かずに勝手に解剖をやる医者、そしてその医者が解剖の試験では赤点すれすれだったという人に手術をされるほうがはるかに「病院の怪談」なのである。 ついでに言うと、大学の研修医がはじめて手術をする際は、すべて人間の手術用のメスを握るのははじめてである。国家試験に受かるまでは患者にメスを入れてはいけないのだ。手術ミスが起こるのは、指導医がしっかり指導しないためで、その人が解剖の実習をしたことがないためではない。最後に言わせてもらうと医師国家試験には解剖の試験はない。臨床科目だけである。まがりなりにも公の出版物を書き、さらにそれが本の頭の部分と言う大切な場所なのだから、ちゃんと調べてか らものを書くようにしてもらいたい。 いずれにせよ、中山氏の発想はテストの点より、プロセスである実験や正しい勉強のやり方のほうが大切だと言いたいようだ。これは現在の文部省やそのご用学者たちの言うところのペーパーテストより生きる力が大切という考え方に通じるもののようだ。しかしながら、この考え方はアメリカなどではとっくに否定され、現在アメリカだけでなく、イギリスや北欧諸国、シンガポール、インドなど国際的 に科学レベル、教育レベルの高い国々ではペーパーテスト学力をあげることに躍起 になっている。このあたりのことは日本の数学者や科学者の間でもコンセンサスが得られている。 さて、最後に自説を強調するために、彼は自分の意見が正しいかどうかを理学者や工学者、そして日本を代表する物理学者や化学者に聞けという。このあたりも国民教育についての諮問期間の代表をノーベル賞物理学者に頼む文部省の考え方とまったく軌を一にしている。 私はエリート主義者でないから、エリートの学力低下より、製造業を支える一般国民レベルの学力低下のほうをはるかに問題にしている。確かに大学や大学院レベルでの物理や化学では医学と比べ物にならないくらい実験は大切だろう。しかし、中学や高校で物理や化学の考え方が実験でないと身につかないかどうかは話は別だ。 この手の実験が面白い人間はもとより、科学的センスのある人間である。そういう人には実験は意味があるだろう。もちろん、こういう子どもは好きで実験をやっているのだから、私が実験は時間のむだといっても、実験は続けるし、その中から 後々大学者が生まれるかもしれない。そういう子どもにまで私は実験をやるなと言っているわけではない。 問題は、実験を面白いと思えないマジョリティの子どもたちだ。そういう子どもをダメと切り捨てるよりは、わかりやすいテキストを使って、問題が解けるようにしてあげるほうが、基礎学力としての物理や化学の能力はよほど身につくはずである。物理学者や化学者の中でも子どもの理科離れを心配する現実的な人はいるだろうが、基本的には彼らは好きで物理や化学をやっている大学生や大学院生を 指導している。彼らには現場の高校生や中学生のことはわからないし、そういう子どもたちにどうやって化学や物理の基礎知識をみにつけさせるのかなど考えもよらないだろう。国民の基礎学力の崩壊を問題にしている際に、一流の学者が喜ぶ ようなやり方でないといけないといけないというのが非現実的なのである。実際に この20年にわたって文部省は実験重視の理科教育を推し進めてきた。しかし、面白くない実験を工夫のないメソッドで、ただ実験に予算をつけ、豪華な実験室を 作ってやり、つまらないと思う子どもを放置した結果、子どもの理科離れはどんどん進んでいるのである。できない子どもの心理がわからない理科的センスに恵まれた一流の科学者の意見をうのみにした教育政策をとったから、現状の理数学力が低下した可能性だって否定できないどころか、それを傍証するような統計結果に なっているのだ。 ついでにいうと、中学や高校で実験をしていないと一流の科学者になれないというのでさえ、本当かどうかはわからない。インドのように貧しくて中学生や高校生で実験ができない国からもたくさんの優秀な物理学者や化学者が生まれているのである。 「和田氏は日本の唯一の強みであった製造業をダメになれ、ダメになれと破壊しているのです」と断言しているが、製造業を支えてきたのは、こういう一流の学者ではない。ノーベル賞学者がろくにいないのに、一般レベルの人間が優秀だったから日本の製造業は強かったと私は考えている。だからこそ、一般レベルの学力崩壊が深刻な問題なのだ。勉強はこのやり方でないとだめだと押し付けるよ り、みんなが点が取れるやり方を考えたほうが一般レベルの学力はあがるはずだ。才能がない人間が大学者のいうやり方をしているのでは、参考にならないことのほうが多いだろう。 いずれにせよ、中山氏のいうことはあまりに科学的でない。このやり方がいいはずだという話がデータベースにのっているのでなく、偉い人がそういうはずだとか、誰もが納得してくれるはずだという形で説得している。しかし、日本の教育改革はそのロジックでやって失敗を続けているのである。ペーパーテスト学力の向上であれば、どの勉強法がいいのかの結果がすぐに出る。私は、そういう形の教育改革を先進国が取り入れているので日本もそうしてほしいと言っているのだ。 私の本が学力低下に貢献しているというが、私の本が売れていた87年から93年くら いまでのほうが子どもの学力、大学生の学力ははるかに高かった。私の本が売れなくなってからのほうが、大学生の学力は大きく落ちている。因果関係を語るのであれば、もう少し統計的な裏づけがほしいものだ。理念でなく統計をベースにしたも のの考え方ができない人が、実験が大切といっても何の説得力ももたないだろう。 私のようにペーパーテスト学力をあげるために理科や数学をやってきた人間のほうが、統計や確率を大切にするのだとすれば、そのほうが後に残る学習法ということ になるのである。 そもそも今回のゆとり教育に私が反対しているのは、「実験が大切だから実験重視」「ペーパーテスト学力より意欲が大切」「余裕をもって勉強すればわから ないところが減る」というような教育学者による思いこみにしたがって、77年以降二度にわたって学習指導要領や教育政策の「改善」を行ったはずなのに、結果が でないで、子どもの学力低下と勉強時間の低下、理数離れを招いたからである。上記の理念的には正しそうなやり方が実効をあげず、結果的に悪い状況になっているのなら、別のやり方を試す価値があるといいたいのだ。(もちろん文部省の ように全国一律にそのやり方を試せと言っているのではない)。実験をせずに、むしろ模型をつかって化学式をわからせるとか、暗記数学をやらせて、数学の嫌いな子、できない子に点を取らせる体験をさせるとか、そういうやり方のほうがまずいとは限らない。ある県の教育委員会が、そのやり方を試して、子どもの学力があがればそれを全国に採用すればよい。要は結果が大切だと言いたいのである。私の本が売れなくなってから子どもの学力が低下したのも、勉強嫌いの子どもにやればできるという考え方が薄らいできたからかもしれない。統計調査をやってみないとわからないことはいくらでもあるのだ。 最後にいわせてもらうが、私自身は変節したり、宗旨替えしているつもりはないが、パラダイムやコンテキストがかわれば、それに自説も合わせていかないといけないと考えている。これは節操の問題ではなく、柔軟性の問題である。だから こそ、私の暗記数学に激怒した数学者たちが今は同士として戦っているのである。子どもが勉強をものすごくさせられていた時代には、手抜きの勉強法を教えてあげるのは意味のあることだろうし、勉強をしない時代にはどんな形であれ勉強をさせる方法を考えないといけないだろう。そういう点で、子どもの変化を常日頃から、通信教育をやることなどを通じて把握しているから、最近は学力崩壊を憂え、基礎学力の充実を訴えているのである。今回の指導要領の改訂でも問題になるように、 学力低下の本質は小中学生の学力低下にある。それは私が受験勉強法の対象にしな かったもので、和田式の受験勉強法のせいで、小中学生の学力が下がることはあり得ないのだが、学力低下が深刻な問題だと思うから、基礎学力の充実を訴えているのだ。 ついでに言うと、私は通信教育のオーナーであるので、和田式のやり方がうまく いかなければ、なぜかを学生と常にミーティングを行い、やり方を改善しつづけて いる。当初は1分考えてわからなかったら答えを見ろと言っていたが、今は5分は考えろといっている。そのほうが結果がよいからだ。結果的に岡部教授の数学学習法とより似たものとなったわけだ。そういうわけで、私は今でも年2、3冊の受験 勉強法の著書を書きつづけているが、常に前よりいいやり方、いい参考書の紹介、そして子どもの学力レベルの変化があればそれに合わせた対策を提供しつづけている。認知心理学を勉強したのも、私の通信教育の生徒のために、よりよい学習法を提供するためのもので、無節操精神のためではない。常にイノベーションを重ねる ことはむしろ私なりの責任感と感じている。昔言った内容のことを10年以上も同 じやり方を勧めつづけているとすれば、それこそ子どもをばかにしていることになるし、自分も変われない「勝ちぬけない」大人になってしまうのだ。 いずれにせよ、実験をやらないと理科の基礎学力がつかないと考えるほどプロセス重視で、偉い学者のいう学習法のほうが現場で成績をあげている教育者より正しい と思うような権威に弱く、また時代が変化した際にに対応した変化をすると無節操 と批判する中山氏は、私の目から見て「勝ち抜く大人」には見えない。自分の勉強法に絶対の自信があるのなら、なぜ東大に合格しなかったのか?大学の世界に長く いたようだが、その世界で勝ちぬいて教授になったのか(私は教授が偉いと思っているわけでない、その世界に籍を置いている人にとって「勝ち抜く」ことは教授になることのはずだと言っているのである)、どれだけの海外でも認められるような 論文を書いているのか?著述業で勝負しているのなら、そういう本が果たして売れていると言えるのか? 彼が参加しているいろいろな分野でとても彼が勝ちぬいているように私には見えない。私自身は結果重視論者なので、勝ちぬきたいとは思っているが、自分が「勝ちぬく大人」とは考えていないが、やり方がよかったせいか、満足できるものでないにせよ、それなりの結果は出しているつもりだ。受験勉強法については自らが東大理Vに合格しているし、多くの生徒を志望校合格に導いている。著述業の世界では昨年の『大人のための勉強法』や『痛快!心理学』というヒットを出している。老年精神医学の世界ではそれなりに業績があって、昨年の老年医学会では、心の問題のシンポジストに選ばれている。そして、自分の本当の研究分野である精神分析。特に自己心理学の分野では、日本人として初めて自己心理学のアニュアルに論文が 収載されたし、本年の自己心理学の国際学会において唯一の日本人演者である。科学的な医学研究はろくにやっていないが、自分のアイディアからの論文がラン セットに載って私も第二著者になっている。その世界に入った以上は結果を出すべ きだと思って行動した結果がこのようなものなのである。 中山氏の著作を読むと、結果より理念を大切にする結果が「勝ちぬけない」人間 を作っているのではないかと疑ってしまうのだ。 |
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